『仙台で大きな地震があったんだって。』
僕はそのとき、オーストラリアゴールドコーストにいた。サーフボードのパッキング作業をしていた。
全ての作業を投げ出して、事務所のパソコンを立ち上げた。
飛び交うニュースを見た。栗原で震度7というのが目に入った。
泉区は?泉区はいくつだ。どこだ。
これはただごとじゃない。みんなは大丈夫か。電話は繋がらない。
隣で偶然スカイプしていた先、大阪で、そこでも長い時間揺れたらしい。
ただただ、ニュースをクリックして、情報更新を見るばかりだが、心が動転していて目には入らない。
そして、スカイプ先、大阪で、NHKを見ていて、実況してくれていた。
『車が、流されてる。すごい津波だ。』
NHKをUSTREAMで流す中学生がいた。
そこからそのUSTREAMにしがみついた。津波を見た。
心が正常なわけがない。
自分のことしか考えていなかった。泉区はどうなってるんだ。みんな無事なのか。頼むから海沿いに行ってたってことがないように。神様。
あれから1年か。
去年の11月に帰国し、仙台新港を見に行った。
僕達が住んでいた蒲生のアパートも見に行った。見るのは辛かった。周りに住んでいた人の顔を思い出した。
僕らはなぜオーストラリアにいたのだろう。見るも無残な蒲生の干潟に立ち、海を見ながら、どうして僕はオーストラリアにいたのだろうか。
仙台でサーフショップをすると決めたのが、6年くらい前だったか。新港で毎日サーフィンするから蒲生に住むのは当然。
なぜだかオーストラリアに行くと決めて、なぜだか、滞在延長、また延長を重ねた。帰ったら蒲生に住むのは当然。
仙台が大好きな僕は、震災を経験しなかった。いるはずの蒲生に僕はいなかった。家族が蒲生にいたと思うとそれだけで身震いがする。どうしても自分のことしか考えられないよ。
親友の13回目の命日がくるな。
今年は仙台に戻る。
まだ、仙台にいなかった自分の立場を受け入れられずにいる。
私もちょうど親とスカイプしてて、地震は仙台だって!って言われた瞬間に、咄嗟に奥様に電話した事、スカイプで見た、地震の揺れ、身体中の鳥肌を今も鮮明に覚えてるよ。
あの場所に居なかった人たちは、居なかったからこそ、やらなくちゃいけない事があるはずだよね。
あのときは本当に怖かったね。そうだよね、いなかったからこそやらなきゃね。仙台がもっともっと良い街になるように少しでも手助けできればと思っています。