サーフボードの画像をSNSにポストするのは日課みたいなもんだ。スマホの向こう側の皆さん、どうだこのボード。かっこよくはないか。気にってくれないか。ちゃんと見てくれ。サイズはこうだぞ。
では目の前にサーフボードがあってそれを見るとしたらどうだろう。画像をスマホで見るのとは違い立体感が出るだろうか。それどころか動いてみて斜めから見たり回り込んで見たりしないだろうか。上から下から覗いてみるもんだ。サーフボードのフォルムが分かり、徐々にイメージが大きくなっていくのだ。
ではいよいよ触っていいとなる。視覚だけではなく触覚の出番だ。ボリューム感を見るときに脇に抱えたときには、視線はボードから外れ、空想しているかのように斜め上を見ながら感触を確かめる。もはや視覚を邪魔としているみたいだ。サーファーと呼ばれる人たちは、サーフボードの全てを撫で回したあと、このサーフボードが調子いいか悪いかを判断してしまうくらいだ。ロッカーが強いね、とか重心が後ろだね、とか知ったフリをするのは定石だ。それがとても楽しいのだが。
ではいよいよ乗ってみよう。ここから人の感覚は大きく飛躍することを伝えたかった。
外と接続している視覚や聴覚や臭覚といった感覚は脳と直接つながっている。それとは別で触覚や運動感覚は全身の神経から脳につなぎダイナミックに動くもの。もっと言えば運動感覚は内臓感覚にもつなぐこともできるくらい躍動的だ。波と自分とサーフボードに乗る感覚は、全て一円として表現できない感覚を人にもたらしている。だからサーフボード販売者は試乗会をしてきたのかもしれない。
SNSへサーフボードを紹介するポストもサーフボード試乗会も人が動くための補助的な役割があって機能していたんだと思う。人が動かなくなって人が集まらない社会が来てしまったので、これらの意味が全く無くなった。というか意味が変わったんだと思う。届かない。
サーフボードは画像で見るものでもなく、家に並べて触るものでもなく、乗るためだけにある。身の回りの95%がデジタル化したら残り5%の中のメインはサーフボードだ。”サーフィンが尊い”を超えて実は”サーフボードが尊い”のではないか。残り5%という非常にマイナーな手段。もう実際に乗ってみるしかない。
参考